泡の立たない不思議なもろみ−   酵母が糖をアルコール発酵すると、Part 3でもお話ししましたが、アルコールと同時に炭酸ガスが発生します。これはビール酵母でもワイン酵母でも同じです。ビールでは、あの爽快感とクリーミーなきめ細かい炭酸ガスの泡が命です。シャンペンでポーンと景気良く栓が飛ぶのも閉じこめられた炭酸ガスによるものです。でも、ビールにしろワインにしろ発酵中のもろみでは清酒もろみのように大量の泡は立ちません。今から40年ほど前に、島根県のある酒蔵で泡の立たないもろみが見つかりました。蔵元にとっても初めての経験です。これは発酵していないにちがいない。気味が悪い、腐造だ!、と心配しましたが、不思議なことにやや香りは低いもののアルコールは充分出てお酒になり、一安心しました。しかし、「まてよ、これは面白いぞ」「何故だろう」が泡なし酵母の開発につながりました。これは、このなぜ?を解明し、今や酒造りの大半が泡を吹かないもろみになった泡なし酵母の物語です。

1.もろみの進行と泡の様子
 清酒もろみで、酵母がアルコール発酵を始めると炭酸ガスが出ます。そしてもろみの表面は泡立ち始めます。泡は日に日にどんどん増えますが、この過程を泡に注目して眺めると、筋泡(すじあわ)、水泡(石鹸泡)、岩泡、高泡、落ち泡、玉泡(大玉から小玉へ)、そして地へと変化し、やがて発酵は終了します。この変化はどんなもろみでも大体同じような過程を経るので、分析法の未発達であった昔は発酵状態を知るよい指標になりました。しかし、発生する大量の泡のために、タンク容量の半分から3分の2ほどの量しか仕込めません。この分だけタンクの容量は無駄になります。それでも発酵の旺盛な時には、うっかりしていると泡が溢れてタンクの外へこぼれ出します。しかも清酒酵母は泡にたくさん付着していますので泡がこぼれるとその後の発酵が弱ってしまいます。ですから、泡消し役の不寝番をおいたり、泡消機を回し続けることも必要になります。大変な労働です。

2.泡あり酵母と泡なし酵母はどこが違う?
 さて、たまたま見つかった「泡なし酵母」は酒質がいまいちでしたので、これを改良するか、優れた「きょうかい酵母」の泡なし変異株を育種する必要があります。これは後者の道を選ぶ方が安心です。一般に酵母などの性質を変える方法として、酵母に紫外線を照射して突然変異株をつくり、その中から酒造りに適した性質を持った株を探す方法もあります。しかし、この方法では他の望ましい性質も失うことが多いのです。一方、紫外線を照射しなくとも、自然に変異を起こしている株も確率は小さいのですが必ず出現しているはずです。これを捕まえることにしました。問題は、何億もの酵母の中からただ1個の泡なしに変異した酵母を探し出すことが難題なのです。
 そのためには、先ず泡あり酵母と泡なし酵母ではどこが違うかを調べます。顕微鏡で調べました。細胞の周りがもやもやしている(泡あり)、輪郭がはっきりしている(泡なし)ようですが、はっきりしません。化学分析は?、全く違いがありません。甲論乙駁、難産の苦しみが続きました。しかし、やはり顕微鏡です。酵母を見るために調製したプレパラートにたまたま気泡が入りました。プレパラートとしては失敗です。これを顕微鏡で覗いた途端に閃きました。「泡あり」は気泡の周りに酵母が整列しています(図−1A)。これだ!。早速「泡なし」にも気泡を入れて顕微鏡を覗きました。「泡なし」は気泡には無頓着でした(図−1B)。結果的には、これが有力な酵母の釣り針になりました。
 何故こうなるのだろう?。研究は続き、後日この原因が確かめられました。泡あり酵母が着ているコート(細胞壁:Part 1参照)は撥水性の素材で、泡なし酵母は水になじむコートを着ていることが判りました。現在では、研究が後輩諸氏に受け継がれ、さらに発展してコートの素材の設計図である遺伝子も詳しく解明されました。この話は、回を改めてご紹介します。

3.1億分の1を釣り上げる?
1億個ある多数派の泡あり酵母の中に1個混じり込んだ少数派の泡なし酵母を釣り上げる!。太公望も顔負けの気の遠くなる話です。ここで発想の逆転が功を奏しました。多数派を追い出して目的とする少数派を残す方法を考えつきました。そうです。気泡と仲良しの多数派をブクブクと泡を立てて追い出してやるのです(図−2)。高価な装置も技術も不要です。熱帯魚の水槽で使うあのブクブクで目的を達成できました!。

4.あらゆる「きょうかい清酒酵母」に泡なしのラインアップが完成
 この方法を使って、主な「きょうかい清酒酵母」全ての泡なし株を揃えることができました。そのために、仕込みタンクの有効率が高まり、泡守(あわもり)の不寝番もお役御免になりました。今や、「きょうかい清酒酵母○○-01号」と末尾に01が付いた「泡なし酵母」は日本醸造協会から頒布される清酒酵母の約7割を占めるに至っています。この研究を完成させたのは、醸造試験所(当時)の秋山裕一、大内弘造、布川弥太郎、熊谷知栄子の各博士をリーダーとするプロジェクトチームでした。

 

【参考文献】
秋山裕一:醸協、79 (3) 190 (1984)
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「Part 1 清酒酵母ってどんな生き物?」はこちらから

「Part 2 清酒酵母ってどんな生き物?」はこちらから

「Part 3 清酒酵母のアルコール発酵(その1)」はこちらから

「Part 4 清酒酵母のアルコール発酵(その2)」はこちらから

「Part 5 清酒酵母の系譜しらべ」はこちらから

「Part 6 酵母という名前の由来」はこちらから

「Part 8
酵母の変り種−赤い清酒酵母−」はこちらから

「Part 9 酵母はつらいよ!−ストレスとその克服−」はこちらから

「Part10殺し屋酵母」はこちらから