前回 Part 5では清酒酵母の系譜のお話をしました。ところで、わが国で酵母の存在が知られ、「酵母」という語がいつ頃から使われ出したのでしょうか? 酒造りの歴史は数千年と言われていますが、「酵母」という語の歴史は以外と新しいようですよ!
 わが国で「酵母」という語はいつから使われ出したのか調べてみますと、明治20〜30年代(19世紀の終わり頃)になってからだと推定されます。酒造りの歴史が5000年以上にも及ぶ中国でも「酵母」を意識したのは比較的新しいようです。もしかすると日本よりも新しいかも知れません。


1.ビール醸造技術の導入と酵母

 日本の鎖国が終わり明治時代に入って、西洋文明として導入されたビール醸造技術を学ぶ中で、「発酵を司る微生物」yeast(英語)やHefe(独語)が紹介されました。これを日本語にどう翻訳するか。いろいろ訳語が考えられたのですが、最終的に「酵母」に集約しました。誰がいつは不明ですが筆者は以下のことから明治30年代後半と推察しています。

2.「酵母」への道のり
(1)明治6年には「醗酷」が「はっこう」「ヤアスト」


H.カリーベールド著、小泉晴江訳
科学捷径 酒水製造書 全
東京文正堂 (明治6年、1874)

とふりがな付きで酵母の意味に使われています。「ヤアスト」とは勿論イーストです(右の図)。
(2)明治20年刊行の書物では、「サッカロミセス・セレウヰシェー」、学名そのものです。その説明には「この菌は酒類の醸造およびパンの製造に用ゆ」とあります。
(3)明治21〜22年には「清酒醗酵母」「酵母」が醸造雑誌に出てきます。以下、この書物を追ってみますと、明治26年頃になって「清酒酵母」「酵母」が増えてきます。しかし、この頃は未だ酵母(あちらの言葉で「イースト」) などど注釈付きも出てきます。「酒母菌」もありますし、「醸母菌」や「醸母」という語が多用されており、この頃はいろいろ混在して使われていたようです。このような道程を経て、以後、徐々に「酵母」に統一されていったのでしょう。明治37〜38年頃からは、「酵母」以外の語がほとんど見られなくなります。

3.酵母を意識した欧州と意識しなかった(?)中国、日本
 果実酒や麦芽を使う単発酵圏と、麹菌という目に見える微生物を駆使する並行複発酵圏とで「発酵を引き起こすもの」への認識が異なったことは、当然といえば当然ですが興味深いことです。単発酵圏の欧州では「目に見えないもの」が引き起こす発酵に対する不思議と見えないモノの力に対する憧れを感じ、その原因究明がなされました。一方、麹菌という目に見える微生物を駆使する並行複発酵圏の中国、日本では発酵を引き起こす原因が目に見えていた安心感があったと言えましょう。
 「発酵を引き起こすもの」は麹または酒母と称されていました。

4.乾酵と合酵
 しかし、さすがは悠久の歴史をもつ中国です。今を去る900年前に書かれた酒造書「北山酒経」には、もろみの泡を乾燥させたものを「乾酵」といい、種菌としてこれを新たなもろみに加えることを「合酵」という、と記載されています。酵母菌が泡に集まり、それを新たなもろみに加えると確実に発酵が進み、酒が出来ることを知っていたわけです。しかも、泡を乾燥させておけば保存もきくことも知っていたと窺えます。現在でも、発酵が弱ったもろみに元気のいいもろみの泡を加えて、発酵を回復させる手段が採られることがあります。

エピローグ  このように、「酵」には「発酵」や「酒のもと」の意味があります。それに「母」を付けましたが、醸造や発酵作業が昔は女性の担当であったにせよ、「母」は必ずしも女性を意味するものではありません。「母」は「もと」「根源」や万物を育てるもの「地」といった意味をもつ語として「酵母」なる語ができたのでしょう。ちなみに、欧州におけるyeastの語源については、武田科学振興財団の内林先生が詳しく解説しておられますので、下記参考文献の5をご覧下さい。
【参考文献】
1)長谷川武治:雑録微生物学史、(財)発酵研究所 (2001)
2)塚原虎次、竹田正久監・編:清酒酵母の分類学、建帛社 (1985)
3)日本工芸新書(明治19年〜)、醸造雑誌(明治21〜38年)
4)中華酒文化研究所他編:輝煌的世界酒文化(第2回 国際酒文化学術研討会論文集)成 都出版社 (1993)
5)内林政夫:語源に尋ねるビール、醸協、97 (4) 305 (2002)


「Part 1 清酒酵母ってどんな生き物?」はこちらから

「Part 2 清酒酵母ってどんな生き物?」はこちらから

「Part 3 清酒酵母のアルコール発酵(その1)」はこちらから

「Part 4 清酒酵母のアルコール発酵(その2)」はこちらから

「Part 5 清酒酵母の系譜しらべ」はこちらから


「Part 7 泡なし酵母物語」はこちらから

「Part 8 酵母の変り種−赤い清酒酵母−」はこちらから


「Part 9 酵母はつらいよ!−ストレスとその克服−」はこちらから

「Part10殺し屋酵母」はこちらから


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